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In the Valley of Elah 告発のとき

アメリカ映画 (2007)

2003年から始まったイラク戦争に絡む、一種の犯罪ミステリー。イラクでの軍務を終えて帰国した次男と連絡がつかないことに業を煮やした “元軍警察の軍曹だった父” が、自ら遠く離れた軍の基地のある町に乗り込み、軍と警察の双方に働きかけるが無視される。しかし、息子がナイフで刺し殺され、屠殺された家畜のようにバラバラにされ、火で焼かれ、動物にところどころ食べられた姿で見つかった時、事態は一変する。最初、軍は、息子が麻薬がらみでメキシコ人に殺されたと主張する。父ハンクは地元警察の女性刑事エミリーに助けを求め、彼女は、ハンクの直感に助けられ、軍の捜査に矛盾点を見出し、捜査の主導権を握る。捜査は複雑な経過を辿り、軍の卑怯な隠蔽体質も明らかになるが、最後に映画が訴えるのは、戦争行為の残忍さ、そして、それによって変えられてしまった兵士達の異常な心理状態だ。だから、この映画は強烈な反戦映画でもある。そうした内容を考えた時、この映画の原題『In the Valley of Elah(エラの谷で)』は、何を意味するのだろうか? エラの谷は旧約聖書の『サムエル記』に登場する、ダビテとゴリアテの戦いの場。少年ダビデが、ペリシテ人の巨大な兵士ゴリアテを石投げで殺すという有名な話の舞台だ。この話を、ハンクはエミリーの息子ディヴィッドに話して聞かせる。そこでハンクが伝えたかったことは、“小さなダビデが強大なゴリアテに勝てたのは、勇気があったから。だから、勇気を持って敵を粉砕しろ” という 古い戦争概念だ。映画の最後近くで、ディヴィッドは母にもう一度、その話をして欲しいと頼む。その時、ディヴィッドは、「なぜ王様は、ダビデを巨人と戦わせたの? まだ、子供だったのに」と母に質問する。ここで、王様はアメリカ大統領、あるいは、国家そのものであり、ダビデは若き兵士一人一人だ。なぜ、兵士は、国家の犠牲となって “辛い思いをし、場合により、精神に異常を来たさねばならない” のか? この言葉の中に映画のすべてが含まれている。だから、それを題名としたのだろう。日本題名は、内容を誤解させるだけでなく、ジョディー・フォスターをスターダムに上げた『告発の行方』の題名とダブり、映画の内容を、意図的にミスディレクションしている疑いすら抱かせる。

『Hesher(メタルヘッド)』(2010)で鮮烈な印象を残したデビン・ブロシュー(Devin Brochu)が少しだけ顔を見せている。トミー・リー・ジョーンズがアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた名演を見せる非常に男っぽい映画なので、そこに出てくる子役などには目が行かないのが普通だ。しかし、デビンが他に出た映画は、『メタルヘッド』以外すべて端役なので、彼が出演した中で一番の名画の中で、どのような演技をしたかに焦点を当てることにした。デビンの年齢は、2014年に17歳だったという記載があるので、映画の撮影時(2006年12月)には9歳だったと思われる。役柄は、シャーリーズ・セロン演じるシングルマザーの女性刑事の一人息子。上記に書いた「エラの谷」の話で、映画の本質に絡むが、それに気付いた人は残念ながら多いとは言えない。


あらすじ (関連部分のみ)

映画開始から38分後。息子を何者かによって惨殺された元軍曹ハンクが、地元警察の “昇進を同僚から妬まれている” 女性刑事のエミリーに、昔軍警察で培った直感から、息子の殺害場所が、軍の所管地区ではなく、地元警察の管理する道路沿いだと指摘した後の映像。自宅に戻ったエリミーは、一人息子ディヴィッドの部屋のベッドに一緒に横になり、眠り込むのを待っている(1枚目の写真)。そして、眠ったと思い、照明を消し、部屋を出てドアを閉めようとすると、ディヴィッドは、「ドア」と一言。母はドアを徐々に開け、ディヴィッドは開口部の大きさに満足すると、「おやすみ」と言う(2枚目の写真)〔後で、開口部の比較がある〕
 

映画開始から59分後。それまでに、エミリーは署長と直談判し、事件の捜査権を軍から取り戻すのに成功する。しかし、軍人に直接尋問することは、軍の壁が厚くて出来ないでいる。そんな時、モテルの食堂にいたハンクを見たエミリーは、注文前だったので、同情していることもあって、自宅に連れて行き夕食をごちそうする。準備に手間取り、ようやく「OK。食べてちょうだい」と許可が出る(1枚目の写真)。さっそくディヴィッドがナイフとフォークを手に取ると、ハンクは、両手を顔の前で組んで無言の祈りを捧げる。それを見たディヴィッドは、自分も顔の前で両手を組み、目を閉じるが、いつまで続けるのか分からないので、ハンクをこっそり見てみる(2枚目の写真)。
 

夕食が済むと、ディヴィッドは片付けを手伝おうとするが、母は、「ベッドに入ってらっしゃい」と命じる。ハンクが、「私にできることは?」と訊くと、ディヴィッドの方を見てから、ハンクを見る。次のシーンで、ハンクがベッドの前で、C・S・ルイスの『ライオンと魔女』を拡げているので、寝る前に読んでやるように頼まれたことが分かる。しかし、ハンクは溜息をつくだけで、一向に読もうとしない。しびれを切らしたディヴィッドが、「読んでくれるんじゃないの?」と訊く(1枚目の写真)。「私には、一言も理解できん」。「何かお話、知らないの?」。「話し上手じゃないんだ」。「じゃあ、それ読んでよ」。ハンクは、本を放り出すと、「君は、自分の名前がどこから来たのか知ってるか?」と訊く。「お母さん?」。「いやいや、もっと前だ。君の名前はダビデ王から来てる。お母さんは、言わなかったか?」〔ダビデは、英語では “ディヴィッド” と発音する〕。ハンクは、ダビデとゴリアテの話を始める。「2つの大軍があった。イスラエル軍とペリシテ軍だ(2枚目の写真)。両軍は、丘の上に陣取り、真ん中にエラの谷があった。場所はパレスチナ。どこにあるか知ってるか?」。「ううん」。「構わん。とにかく、ペリシテ軍には飛び抜けた戦士がいた。どでかい巨人でゴリアテという名だった」。「ホント? ゴテアテって名のロボットがいるよ」。「これは、別の奴だ。彼は、毎日、40日も、谷に下りて行っては、相手方に戦いを挑んだが、誰も応じなかった。王の有する最も勇敢で強い戦士達ですら、全員が恐れをなしていた」。「なぜ、撃たなかったの?」。「拳銃は、まだなかった。弓矢はあったが、戦闘の規則があって、剣で戦う者を弓で射ることは許されなかった。で、とにかく、ある日、君よりわずかに大きな少年が、王様にパンを届けに来て、僕がゴリアテと戦いますって言った」。「ホント? ありえないよ」。「実話だ。王様は、ダビデに自分の鎧(よろい)を着せた。だか、それはあまりに大き過ぎ 重過ぎたので、ダビデは脱ぐと、辺りを見回し、滑らかな石を5個選んだ。そして、手に石投げを持つと、谷に下りて行った。ゴリアテは恐ろしい叫び声を上げて飛びかかってきた。ダビデは、石投げで石を飛ばすと、石はゴリアテの額に当たり、頭蓋骨が割れ、彼は死んだ」。「撃ったんだ」。「石だ。弓矢じゃない」。そして、「どうして勝てたか知りたいか?」と訊く。「どうして?」。「ダビデは、まずしたことは、自身の恐怖と戦うこと。彼は、それに打ち克(か)ち、ゴリアテにも勝った。ゴリアテが襲ってきた時、ダビデは一歩も引かず、狙いを定めて待った。すごく勇気が要るって 分かるだろ? あと僅か数歩で、ゴリアテに粉砕されたかもしれん。そして、ダビデは石を放った。それが、怪物との戦い方だ。奴らを近くに誘き寄せ、奴らを見据え、やっつける」。「おじさんも、たくさんの怪物と戦ったの?」。「ああ」。「勝った?」(3枚目の写真)。「でなきゃ、とっくに粉砕されてる。だろ?」。「そうだね」。「じゃあ、お休み」。ハンクは照明を消し、ドアを閉めて出て行く。しばらくすると、「ドア」という声が聞こえる。母がいつものように開けると、「そんなに開けなくても」と徐々に閉めさせ、かなり隙間が狭くなったところで、「それでいいよ」と言う(4枚目の写真)。ハンクの話は、暗闇に対する恐怖に、少しは効果があったようだ。なお、『サムエル記・上』の第17章には、ゴリアテのことを、「身の丈(たけ)は六キュビト半〔2.9m〕、鎧は青銅で重さ五千シケル〔57kg〕」と書かれている。他は、ハンクの話はほぼ正確だが、最後は、「ダビデの手に剱(つるぎ)がなかったので、ダビデは走りよってペリシテびと〔ゴリアテ〕の上に乗り、その剱を取って、鞘(さや)から抜き離し、それをもって彼を殺し、その首を刎ねた。ペリシテの人々は、その勇士が死んだのを見て逃げた」となっている。
   

映画開始から111分後。事件は解決し、息子と親しかった兵士ペニングがナイフで刺し、肉屋で働いたことのあるボナーが切断を提案したと、父ハンクの前で、“謝罪の意識” のかけらもなく、供述する。死体を埋めなかったのは、お腹が空いていたから〔人間性のかけらもない/そして、3人でチキンの店に行き、盗んだクレジットカードで払ったことで、偽のサインから足がついた〕。その後のペニングの言葉も異様だ。「俺はマイク〔ハンクの殺された息子〕が好きだった。俺達みんな。だが、これが他の夜だったら、ナイフを持っていたのがマイクで、刺されていたのが俺だったかも」〔兵士であることが、ここまで人間を破壊するものなのか? アメリカ映画でこうしたシチュエーションが多いのは、アメリカ軍の遠征先での “支配” のあり方に問題があるのか?〕。この後、遺体を小型トラックに乗せた父は、最後に、犯人だと疑って自ら暴力を振るった男に、謝罪の意味で会う。その時、教えられたのは、息子がイランで、如何に非人道的な行為を平気でやっていたかという恐ろしい話。遺体と一緒に自宅戻った父の映像にダブるように、エミリー刑事の言葉が聞こえてくる。「…だから。ゴリアテは、毎日谷に下りて行って、相手方に戦いを挑んだけど、誰も応じなかった。ダビデが現われて、『聞いて下さい。僕がやります。ゴリアテと戦います』って言うまでは。だから、王様は、ダビデに自分の鎧を着せたが、それは大き過ぎた」。ディヴィッドが質問する。「だけど、どうして、王様はダビデを巨人と戦わせたの? まだ子供なのに?」(写真)。これは、『サムエル記』でも最大の謎の1つだ。あまりに有名な話で、ダビデは、初代の王サウルが戦死した後、王位を継いでイスラエルの王となるので、疑問の余地のない寓話に思えるが、確かに、少年がそのようなことを言い出し、それに王がすぐに応じるのもおかしな話だ。ダビデを、年若いアメリカの兵士に置き換え、サウル王をアメリカ大統領と考えれば、このディヴィッドの疑問は、「なぜアメリカの若者を世界の紛争地域に行かせ、心を病ませるのか?」という指摘に変わる。母であるエミリーは、「分からないわ、坊や」と答えるしかない。質問はさらに続く。「彼、怖かったと思う?」。「ダビデが? ええ。すごく怖かったと思うわ」。これは、若き兵士の一人一人が、たまらなく怖い思いをさせられ、その結果、それを乗り越える過程で、麻薬に走ったり、PTSDになったり、善悪の区別がつかなくなったりすることを示している。映画の最後に挿入される “唐突とも思われる” 母と子の会話は、実は、映画全体の強いメッセージになっている。


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